気のゆくまま筆のゆくまま

日々感じたことを書きます。

「さだまさし カウントダウン in 国技館」に行った話。

・今夜は現地でさだまさし

唐突だが、私はさだまさし氏の大ファンである。アルバムも近年出たものはすべて持っているし、NHKの「今夜も生でさだまさし」は毎回見るレベルのさだマニアだ。

だが、さだ氏があれほどコンサートをやっているにも関わらず、出不精な私はこれまで一切コンサートに参戦したことが無かった。ファンを名乗るのに現地へ行かない、これは怠慢である。

そんな私が重い腰を上げてこのカウントダウンコンサートに行ったわけは、コロナ流行が少し落ち着いてきた、開放感があったらしい。チケットの抽選に通った私は、2021年12月31日という日を、さだまさしと過ごすことに決めた。

以下、自分用のメモとして、当日の様子などを書き残しておく。普段神社記事しか書かなくなった私に書かせるだけの何かが、あのコンサートにはあった。

 

・当日の流れ~第一部~

物販の事前販売があったので、私が国技館に着いたのは17時30分ころだった。既に日は落ち、風は強く寒気凛冽という形容詞が正しく思える気温だった。しかし、既に多くの人が、コンサートの開演を待ちきれず集まっていた。そんな物販の列に並んだ私は、ATMで金を下ろし忘れたことに気づき、2,000円のエコバッグを買うに留まった。

 

食事を済ませ開場の19時に間に合うように戻ると、更に多くの人が列に並び、入場を待っていた。三列に並んで開門を待つ私たちの中からも、寒いという声が出始めたころ、念願の「開場します!!」という声がかかり、さだファンは怒涛のように国技館へと突入していった。入場時の検温で、外気温が低すぎて皆33度台の体温だったのは笑えないか。

ロビーでは物販が行われていたが、事前販売に行くのが遅すぎた結果、目標のバウムクーヘン購入に必要(だったと思しき)な整理券を手に入れられなかったので、スルーして席に着く。嗚呼、アルバムは既に持っているのだ…。私の席は2階の向正面だったが、さだ氏が向きを細かく変えたり、生さだの最中も適宜ホワイトボードの位置が変わっていたから、むしろ見やすいくらいだった。

 

開演までしばらく待ったが、20時30分より、前座として最近某携帯電話キャリアのCM曲を手掛けたPlay.Gooseが歌を披露していた。生さだのジングルしか知らなかったが、他の曲も相当良く興味を持つ。

 

21時になり、いよいよ真打登場、さだまさし氏が出てきた。トークもそこそこに初っ端から「長崎小夜曲」を歌う。多分「新自分風土記」だったと思うが近年のセルフカバーで歌ったバージョンで、会場が大いに盛り上がる。

次に「北の国から」に入ったが、歌唱前のトークで同ドラマが40周年であり、世界各地で放送されたが韓国ではされなかった(というジョーク)があり会場大いに沸く。

その次が、今年の「芝浜を聴く会」演者たる立川談春師匠の登場である。魚勝の女房に焦点を当てた噺っぷりで、名演。さだ氏が懸念した長時間化は避けられた。

談春師匠が退場した後、さだ氏が再登場し、これも近年のアレンジと思われる曲調の「主人公」を歌う。声の張り・伸びが素人考えでも良く感じられ、このコンサート及び紅白への熱い思いが感じられた。

曲が終わった後、談春師匠が上手く噺をまとめたので、ここでいったん休憩となった。

 

・当日の流れ~第二部~

休憩は15分ほどだった。最初は少しトークがあり、紅白への慣らしも兼ねて「空に星があるように」が歌われた。これ以降、最新アルバムの「アオハル49.69」から歌う曲が多くなる。

ここでさだ氏から紅白に備えて、配布されたサイリウムを起動する様指示があり、「なるべく盛り上がっていると見えるように」というジョークで会場爆笑。その和気に似たものが消え切らないうちに、紅白の出番と相成った。

 

紅白での曲目は「道化師のソネット」。後でTV映像を見たとき「ああ録音機材が悪いな」と思った程の見事な歌唱を、現地では聴けた。私は感動して落涙。それほどいい曲であり、いい声であった。

 

紅白がはけても油断は出来ない。つづいてももいろクローバーZが行っていた特番への出演で、またまた中継。ここでは「案山子」が歌われた。ここまではさだ氏の喉の調子が良いように見えたのだが…。

 

次は「誰もいない海」→「悲しくてやりきれない」と続く。青春時代とフォークソングに対する熱い思いが垣間見えていたが、すこし喉がおかしい、と感じるところはあった。

この不安は的中する。「Birthday」の2番か3番で、途中で低い声が出ず、数回歌いなおしたのだ。11月の生さだも声が出ず、小野アナウンサーが代わりにハガキを読んでいた。一同非常に心配しながらコンサートは続く。

続いては「秋桜」。山口百恵さんに提供した通りの、ピアノ中心の演奏でしっとりとした感じ。皆が喉を気遣っていたこともあり、さだ氏の言う通り、非常に緊張した「秋桜」となった。

そして山本直純氏や紅白の思い出を語りながら「SMILE AGAIN」を歌いあげたあたりで、日付が変わる時間が来た。よって「大晦日」の歌唱があり、新年を迎えた。

 

・腰痛との闘い

ここから先の記憶はあいまいである。理由は簡単、長時間の着座で腰を痛めたのだ。

15分の休憩ののち「年の初めはさだまさし」の中継に入ったが、腰が痛くて内容をある程度聞くほどの気力は無かった。

それでも覚えているのは、民主主義と戦争の話だ。我々は自由な社会を、いくらでも自分たちで傷つけてしまう危険がある。メディアがそれに与える影響は大きい。ニュースの送受信を、もっと慎重にせねばならないと思った。

生さだで歌われた曲は以下の通りで、「柊の花」、泉谷しげる氏とのデュエットで「春夏秋冬」、ももいろクローバーZが歌った「走れ」。以上のラインアップだった。

 

・おわりに

以上、備忘録代わりに長々書いてきたが、このコンサートには私にこれを書かせるだけの、エネルギーを持っていた。トークも歌も楽しく、ぜひ来年も参加したい!!と思っている。嗚呼、誰か一緒に行ってくれないだろうか。

神社に行った話…乃木神社

今回参拝した神社…乃木神社

乃木神社について

乃木神社は「坂の上の雲」や「二〇三高地」で有名な、乃木希典将軍と静子夫人を祀る神社である。乃木将軍は明治陸軍を代表する軍人の一人で、日露戦争での活躍や明治天皇への殉死で有名である。

実際にも乃木将軍は高潔な人物であったらしく、日露戦後にはその人格を見込まれて学習院の院長を務めるなどしていた。

そんな彼の遺徳を忍ぶべく大正12(1923)年に建てられたのが、現在赤坂に佇む乃木神社である。乃木将軍の旧宅(現在も保存されている)の隣に鎮座している。

 

・神社の紹介

・鳥居

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左が一の鳥居で、右が二の鳥居。前者を撮影する際は、歩道が狭いので注意。

一の鳥居は狭い都道に向いている。地下鉄乃木坂駅の出口に隣接しているので、アクセスは非常に便利である。二の鳥居の先は境内。二つの鳥居の中間には現代的な手水舎(下記参照)がある。

 

・手水舎

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手水舎。コンクリートが使われていておしゃれ。

一の鳥居~二の鳥居の中間にある。現代の建築様式と神社建築を折衷した感じで、個人的にはお洒落だと思う。2021年12月現在、感染症対策で手水は使えず、アルコール消毒となっている。

 

・拝殿

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拝殿。この撮影の直後、初詣の準備に入っていた。

拝殿。乃木家の家紋があしらわれている。後述する正松神社はここから右に進む。空襲で炎上した本殿ともども、戦後に復興されたものと思われる。

近くに宝物殿があり、乃木将軍の像やゆかりの品々が展示されている。社務所はその隣だが、乃木神社・正松神社・赤坂王子稲荷神社の三社の御朱印が貰える。

 

・その他末社など

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正松神社。意外と新しい。

正松神社…昭和38(1963)年に鎮座。祭神は玉木文之進および吉田松陰で、松下村塾の関係者。乃木将軍は玉木文之進に師事したことから、萩の松陰神社から摂社として分霊された。下記の赤坂王子稲荷神社と並んで、戦災からの復興を機に鎮座した。

 

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赤坂王子稲荷神社。こちらも新しい。

赤坂王子稲荷神社…祭神は宇迦之御魂神・宇気母智之神・和久産巣日神。乃木将軍夫妻が崇敬していた王子稲荷神社を、戦災復興を機に勧請したもの。

 

・おわりに

かつては軍国の象徴として崇敬を集めた乃木神社だが、現在では某アイドルグループのファンや結婚式場として有名な乃木会館があるなどソフトなイメージに変わっている。

時代の変遷に対応したこの神社は、一等地の中とは思えない静けさのなかで佇んでいる。

参考サイト

乃木神社ホームページ

nogijinja.or.jp

神社に行った話…調神社

今回参拝した神社…調神社(つきじんじゃ)

調神社について

調神社さいたま市浦和区に鎮座する古社で、創建は開化天皇の時代と伝わる。伊勢神宮に献上するもの、すなわち調(つき、租庸調の調と考えると分かりやすい)を貯めておくための倉庫があったことから、この社名になった。

祭神は天照大御神豊宇気姫命・素盞嗚尊。日本神話を代表する神や食べものに関わる神様となっている。

中世以来足利や徳川などの武家から崇敬をあつめ、江戸期には行楽の地としても人気があった。またいわゆるお月様への信仰を

この神社に関するトピックが二つある。一つは鳥居が無いことだ。一説には伊勢神宮への献上品を出し入れするのに邪魔だから、と作らなかったと伝わる。

もう一つは狛犬が無く狛兎になっていることだ。つき神社→月神社、という信仰の変遷から生まれたらしい。

この社は旧浦和市内の人々から厚い崇敬を集め、初詣や七五三、初午やお宮参りの際には盛んに参拝されている。私も親戚のお宮参りに同行を頼まれ、複数回本殿へ上がったことがあった。

 

・神社の紹介

・参拝口

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参拝口。いわゆる入り口となる。


では神社について見ていこう。先述した通りこの神社に鳥居はないため、出入り口は写真のようになっている。なお初詣などの混雑時には一方通行制が敷かれるため、ここに戻ることはできない。注意しよう。

 

・手水舎と狛兎

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手水舎と狛兎。近接している。

狛兎はどういう訳か手水舎の裏にある。車で来る人も多いので、それに向かっているのだろうか。

 

・神楽殿

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楽殿。周辺は駐車場。

楽殿で注目すべきは扁額で、中でも高校野球で有名な浦和学院野球部のものが眼を引く。周囲は駐車場なので車に注意。

 

・拝殿

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拝殿。この日は手前に初詣向け?の資材が置いてあった。

拝殿は本殿と一緒になった造りで、上記のようなときには中に入れてもらえる。安政時代の作という。

 

・その他末社など

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金毘羅神社

金毘羅神社…由来は未詳だが鎮座。調神社には鳥居がない、と先述したが、この社のものと思しき鳥居は設置されている。

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調天神社。こちらも由来は未詳。

調天神社…こちらも由緒は未詳。天神様を祀る。金毘羅神社の隣に位置する。

 

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稲荷神社。社殿は必見。

稲荷神社…由緒は未詳だが古くからあったらしい。現在の社は調神社の旧社殿であり、安政時代の改修のさい稲荷神社へ転用された。彫刻が美しく、さいたま市の指定文化財になっている。覆いが掛かっているので、肉眼で見るのが吉。

 

・おわりに

地域からの崇敬を集める調神社。隣は公園になっていて、おそらくここでお宮参りや七五三を済ませた子供たちが遊んでいる。

駅から少し歩く場所にあるが、浦和に来た際には寄ってみると意外な発見があるかもしれない。

 

 

参考サイト

さいたま市観光国際協会

調神社 | さいたま観光国際協会

神社に行った話…率川神社

今回参拝した神社…率川(いさがわ)神社

・率川神社について

奈良市内最古の神社として知られる率川神社は、推古天皇元(593)年、同天皇の勅命により創建された。

祭神は神武天皇の皇后たる媛蹈韛五十鈴姫命であり、後にその父母の狭井大神(大物主神)と玉櫛姫命も祀るようになった。別名として率川坐大神御子神社が知られる。大神神社の摂社とされるが春日大社興福寺の傘下だった時期もあり、確定したのは近代になってからである。

大物主神夫婦とその子供が祀られていることから子守明神という呼び名もあり、現地では子育てや出産に関わる神様として信仰を集めている。

 

・神社の紹介

・鳥居

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鳥居。前面道路の交通量はそこそこ多い。

鳥居は交通量がそこそこある道路(やすらぎの道)沿いにある。通学路になっているようで、登校中の子供が神社に向かって礼をしていた。それだけ信仰を集めているのだろう。

 

・拝殿および本殿

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拝殿および本殿。神官の方々が掃除をしていた。

拝殿および本殿。本殿は奈良県の指定有形文化財で、江戸時代初期に造立されたものと思われる。媛蹈韛五十鈴姫命、狭井大神、玉櫛姫命の三柱が祀られている。

 

・その他末社など

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阿波神社。住吉社・春日社と並ぶ。

率川阿波神社大物主大神の子、事代主神を祀る摂社。俗に言う恵比須様である。奈良市最古の恵比須神社とされる。社伝によると宝亀二(771)年、藤原是公が阿波から勧請したという。

 

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住吉社。末社だが由来は未詳。

住吉社…住吉三神を祀る末社。何故鎮座しているのか、などは未詳。

 

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春日社。末社となっている。

春日社…武甕槌命、斎主命、天児屋根命比売神を祀る。こちらも由来は未詳。

 

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大神神社遙拝所。近年出来たか。

大神神社遙拝所…先述の通り率川神社は大神神社の摂社なので、遙拝所がある。

 

・おわりに

出産・子育ての神として信仰を集める率川神社。少し寄っただけでも、地元の人の参拝風景や子供たちによる礼拝を見ることができた。それだけ地域で大事にされている神社といえよう。

 

 

参考サイト

率川神社ホームページ

【公式】率川神社(いさがわじんじゃ)| 子守明神 安産祈願 縁結び 厄除け

神社に行った話…采女神社

今回参拝した神社…采女神社

 

采女神社について

采女神社は古都奈良の景観を象徴する池、猿沢池の畔に建つ神社である。春日大社末社扱いだとか。

小さな社だが、高名な世阿弥が創作した能のモデルになった女官を祀っている。縁結びの御利益があるそうだが、後述の逸話を考えると疑わしいことは確かである。

さて由緒だが、天皇の寵愛が薄れたことを悲嘆した女官は猿沢池に身を投げて死んでしまった。それを慰めるために出来た神社がここである。

源氏物語」にもあるが、有力な後援を持たない女官の悲劇を伝える説話だ。

当然上記の逸話は創作と思われ、女官を振った天皇も誰だか分からず諸説ある。だが、そのような話があり得ると考えられ、同情する動きが大きかったという事実は重要なのではあるまいか。

 

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采女神社。この日は入れなかった。

 

なお、ここからは余談。猿沢池は濁らない、という伝説があるのだが。

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濁った。

極度な雨男たる私は濁らせた。池に到着した時にはなんとか雨は止んでいたが、それ以前の土砂降りがいけなかったようだ。

再訪のときは何とか晴れて欲しいものだ。

 

参考サイト

奈良市観光協会サイトの「采女神社」

narashikanko.or.jp

神社に行った話…手向山八幡宮

今回参拝した神社…手向山八幡宮

・手向山八幡宮について

手向山(たむけやま)八幡宮は、かつて東大寺の鎮守として信仰を集めた社である。

主祭神応神天皇姫大神仲哀天皇神功皇后仁徳天皇。いわゆる八幡信仰の中核である。

元々は東大寺大仏殿の傍ら、池のほとりにあった。しかし源平合戦の最中、いわゆる南都焼き討ちに遭い東大寺と一緒に灰燼に帰した。鎌倉時代、重源によって東大寺が再建されたとき、現在地に遷座したという。

 

摂末社の数は多く、Wikipediaの記載順に紹介していくと

 

武内神社

若宮神社

高良神社

若殿神社

明武神社・劔神社・八子神社・松童神社(四社合殿)

阪本神社・恵比寿神社(二社合殿)

住吉社

東照宮

大国殿

白山神社

鑰取神社

五百立神社

 

があり、かつては南都有数の大寺の鎮守として威容を誇ったものと推測される。なお、この記事の記載を見れば分かるが、事前調査のまずさと大雨に伴う撮影ミスがあり、上記の社を殆ど撮り逃している。最悪である。

 

私の雑感は兎も角、南都焼き討ちなど幾度か戦火を被ったがその度に再建され、現代まで長く信仰を集める神社と言えよう。

 

・鳥居

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鳥居。入口は二つある。

ここからは建造物の紹介。鳥居は石造りで、二つある。一つは東大寺三月堂方面に、もう一つは若草山春日大社方面に通じている。奈良観光のゴールデンコースに沿う良い立地と言えよう。

 

・楼門

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楼門。奈良県の指定有形文化財となっている。

楼門は立派なもので、本殿周囲を巡る回廊に口を開けている。元禄時代に再建された本殿等と並んで文化財になっているので、この門も同時代の創建だろうか。

 

・拝殿・本殿

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左…拝殿。右…手前が拝殿、奥に本殿。

拝殿と本殿は元禄時代の再建で、ともに県指定の文化財になっている。拝殿は神楽殿・舞殿を兼ねているのだろうか。

 

・その他末社など

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神楽所。中央の社が東照宮らしい。絵のモチーフは頼光の鬼退治。

神楽所+東照宮東照宮神仏分離でここに移った。気候のせいか結構痛みが見える。

 

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大黒殿。

大黒殿…大黒天を祀る。休憩所も兼ねるか?

 

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若宮神社仁徳天皇を祀る。

若宮神社奈良県の指定有形文化財

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菅公腰掛石。元は別の場所にあったろう。

菅公腰掛石…菅原道真が腰をかけたとされる石。この社で歌を詠んでいる。先述の通り鎌倉時代遷座しているので、元は別の場所にあったものと思われる。

 

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四社と二社。合殿されて並んでいる。

明武神社・劔神社・八子神社・松童神社(四社合殿)と阪本神社・恵比寿神社(二社合殿)…どのような由緒で祀られているのかは未詳だが、並んで建っている。

 

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住吉社か。未詳。

住吉社?…三口あるので住吉神を祀っているかと思われるほこら。住吉社なら重要文化財である。

 

・おわりに

この社は自然が美しいところであり、雨の中でも相当に風情があり良かった。

しかし程度によりけりで、この日はあいにくの大雨、東大寺二月堂からの景色が以下のような状態であった。

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あめをとこ

摂末社の取りこぼしもあり、もう一度訪れてみたい神社である。奈良観光の王道、東大寺春日大社の中間と言うこともあり、観光ついでによるのも楽しいだろう。

 

神社に行った話…橿原神宮+畝傍山東北陵

今回参拝した神社と陵…橿原神宮畝傍山東北陵

神武天皇について

神武天皇は初代天皇。伝承によるといまから2,700年ほど前に即位し、日本国を作ったとされる人物だ。

日向国(現宮崎県)に生まれ、一族や家臣を率いて建国にふさわしい地、つまり倭の地へ向けて東征し、長髄彦や土蜘蛛などの敵を滅ぼした後天皇となった。その後は畝傍山の麓に都を営み、国作りに尽力した後亡くなったとされる。享年は127歳で、明らかに恣意的な操作の跡が見られる。

なにぶん古い出来事すぎて「古事記」「日本書紀」を編纂した時代ですら既にいつ頃の話か分からなくなっていたらしく、上記の年代は相当巧緻に作り上げられたものだ。上記の二書が編纂された時代には辛酉の年に革命が起こるという説が広く流布されていたため、それに応じて即位の年を調節した、というのが有力な説である。

いずれにせよ古代から近代にかけて建国の祖として崇敬を受け、軍国主義下においてはナショナリズムの道具として使われた人物である。

実在性は怪しいものの、モデルになった人間は間違いなく存在する。そんな神武天皇ゆかりの畝傍山周辺にあるのが、橿原神宮畝傍山東北陵である。

 

橿原神宮について

橿原神宮の歴史は意外と浅い。創建は明治23(1890)年のことで、近代を迎えて高揚していた愛国主義の発露として、皇祖たる神武天皇の宮殿があったとされる地に作られた。祭神は神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命

この社の開発・発展については様々な暗い話があり、畝傍山にあった被差別部落が不都合であるとされて強制移転させられた(とされる)事件や、前に紹介した畝火山口神社の遷座などがある。

 

h-keiba.hatenadiary.jp

 

いずれにせよ明治国家が威信をかけて作っただけあり奈良県(あるいは全国)有数の神社であることは事実である。また建国の英雄を祀るという特殊性から、常に多くの参拝客で賑わう。

 

・鳥居

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左から順に一の鳥居と二の鳥居・北の鳥居・西の鳥居。

ここからは神宮の紹介。入り口は主に三つで、第一に正面の表参道にある一の鳥居および二の鳥居がある。バスや電車で来た場合にはこの鳥居から入ることになるだろう。

次に紹介するのが北の鳥居だ。表参道から道路沿いに進むとこの鳥居に行き当たる。後述する神武天皇の陵墓、畝傍山東北陵に詣でた後で参拝するなら、ここから北参道へ入る。

最後に西の鳥居を紹介する。ここの外は住宅街で、懿徳天皇安寧天皇の陵がある。私のように畝傍山の周囲を一周した後参拝する、という人はここが入り口だ。西の参道は砂利道なので、あまりおすすめしない。

 

・神門

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順に南神門・北神門。

鳥居を潜ったら、神門を通って拝殿に向かうことになる。南神門は表参道と西参道に通じているので、ここから入ることが多いだろう。北神門は基本的に北参道から入ることになる。いずれも手前に手水舎があるので、ちゃんと清めて入ろう。

 

・外拝殿

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外拝殿。宣伝政策のせいかずいぶん立派だ。

神門を通ると、いよいよ参拝だ。外の拝殿は相当立派なもので、賽銭箱や神札授与所などがすっぽり収まっている。この中から内側の拝殿に向かって拝むことになる。

 

・内拝殿

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内拝殿。廻廊から撮影。

外拝殿から内拝殿を経た本殿を拝む。周辺は廻廊になっているが、おそらく基本的に解放されている。本殿も立派だが、近くへ行くことはできなかった。七五三などの祈祷を頼むと入れるのだろう。

 

・その他末社など

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長山稲荷。末社にしては非常に立派だ。

長山稲荷…祭神は宇迦能御魂神・豊受気神・大宮能売神。神宮が出来る前からこの地に鎮座していた稲荷神社で、地元の人々から崇敬されているとか。西参道の最後の方にある。

 

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神饌田。時期柄収穫後。

神饌田…祭事に使う稲を収穫するための田んぼ。西の参道、鳥居から入ってすぐのところにある。

 

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深田池。推古天皇が作った、という話もあるが…

深田池…古くから近隣の水源になっている。神社の景観に一役買っている。釣りをしている人やジョギングをしている人がいて、憩いの場になっているようだ。

 

畝傍山東北陵(神武天皇陵)の紹介

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畝傍山東北陵。初代天皇の陵とされるだけあってよく整備されている。

ここからは畝傍山東北陵の紹介。神武天皇の陵とされている古墳で、宮内庁の分類によれば円丘。神武天皇の実在と事績が説話的なことを考えるとこの陵が彼の陵である可能性は低いのだが、それでもこの地域の有力豪族が葬られていることに変わりはない。参道は長めでいろいろな生き物がいる。

 

・おわりに

神武天皇は建国の祖であるだけに毀誉褒貶あるが、個人的にはその事実だけで尊敬に値する人物だと思う。彼が居たとされる場所に行き、見ることで浮かぶ思いもあるだろう。実際に古代遺跡の発掘が多い地域であり、考古研究所と博物館も併設されているので、神社の参拝後は遺物を見ながら思いをはせるのも良い。

 

・参考サイト

kashiharajingu.or.jp