気のゆくまま筆のゆくまま

日々感じたことを書きます。

神社に行った話…武蔵一宮 氷川神社の摂社・末社

今回参拝した神社…武蔵一宮 氷川神社の摂社・末社

・はじめに

武蔵一宮たる氷川神社のうち、この項は摂社・末社編である。

氷川神社そのものの記事はこちら。

 

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ここでは摂社・末社を、神社発行のパンフレット(「武蔵一宮 氷川神社略記」)に載っている順に紹介する。

 

・門客人神社(摂社)

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門客人神社。写真が悪いのは、光って見えないか、それとも暗くて見えないかというギリギリの選択をした結果である。

門客人神社は足摩乳命と手摩乳命を祀る。氷川神社の祭神、須佐之男命と稲田姫命の説話に登場する神様で、有名な八岐大蛇伝説の脇役である。娘の稲田姫命が食べられてしまう、と嘆いていたところに須佐之男命が来た、という神様。

位置的には拝殿の回廊から東門を出た先、御嶽神社の手前側で、社殿は17世紀の寛文7(1667)年建立。四代将軍家綱の命によるもの。幾度かの改修を経ているが当時の特徴を良く残すとされる。さいたま市指定有形文化財

 

天津神社(摂社)

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天津神社。車で来ると、場合によっては一番最初に拝むことになる。

門客人神社が須佐之男命・稲田姫命に関わる摂社なのに対し、こちらは大己貴命に関わる。祭神は少彦名命で、大己貴命の国づくりに協力した神様である。なぜか私はこの神様によく行きあたる。家系伝説上は諏訪の神様に当たってもいい筈なのだが…

三の鳥居と楼門の中間右側にあり、ここの社殿もさいたま市指定有形文化財

 

・宗像神社(摂社)

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宗像神社。水の神様らしく周囲は池である。

宗像神社は須佐之男命の娘三人、いわゆる「うけい」の際に生まれた多起理比売命・市寸島比売命・田寸津比売命の三柱を祀る。福岡県の宗像大社に祀られている神様で、水や交通の神様として知られ、全国で祀られている。ここもその一つ。

天津神社の向かいへ行ったところ、少し入った池の中にある。

 

・六社(末社)

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六社。どのような縁でここに祀られたのだろう。

末社として祀られる六社。三の鳥居から入って、天津神社の先にある。

順に

石上神社(布都御魂命)

雷神社(大雷命)

愛宕神社(迦具土命)

山祇神社(大山祇命)

神明神社(天照大御神)

住吉神社(住吉三神)

を祀る。

 

天満神社(末社)

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天満神社。ちょっと迷う人もいる。

天満神社の場合、位置関係がややこしい。なぜならここだけ飛び地にあり、二の鳥居付近にある。参道から側道を渡って参拝することになるだろうが、たまにバイクや車が結構なスピードで突っ込んでくるので注意。

 

松尾神社(末社)

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松尾神社。お酒好きにはたまらない。

大山咋命が祀られている。お酒や水の神様。場所は天津神社と相対する地点にあり、行き方によってはこの社が一番最初に目に入ることになるだろう。

 

御嶽神社(末社)

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御嶽神社。どこから持ってきたのだろうか。

大己貴命少彦名命を祀る。御嶽神社と聞いて違和感を持った人もいるだろう。そう、彼らは既に本殿や摂社で祀られているのだ。どういう縁でこの末社があるのかは不明だが、徳川時代には既にあったらしいので、戦国期以前に滅びた豪族の家にあったものを持ってきた、あたりが妥当な推測だろうか?

社殿は門客人神社の隣にあり、こちらもさいたま市指定有形文化財

 

・稲荷神社

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稲荷神社。写真は許して。

稲荷神社は宗像神社と相対する形に鎮座している。祭神は倉稲魂命。こちらも須佐之男命の子供である。稲荷神社らしくちゃんと鳥居が並び、ほこらもあるなどなかなかに見ごたえがある。

 

・おわりに

これで大宮氷川神社の記事は終わりとなる。祀られている神はなんと二十柱。きっとあなたの望む加護を授けてくれる神様に出会えるであろう。

神社を抜きにしても大宮公園にはスポーツや文化に関わる施設が多数あり、休日を過ごすには持って来いの場所なので、ぜひ一度訪ねてみてはどうだろうか。デート以外で。

 

神社に行った話…武蔵一宮 氷川神社

今回参拝した神社…武蔵一宮 氷川神社

氷川神社について

大宮の氷川神社は、関東を中心に点在する氷川神社の総本社である。社名の由来はいくつか伝わっているが、出雲の川から取った説・清涼な水が豊かだったからという説の二種がある。

祭神は須佐之男命・稲田姫命大己貴命で出雲系の神々が揃う。摂末社も多いため、今回は氷川神社本社だけを扱い、その他の摂社・末社は別枠で紹介する。

 

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私を含む地元の人には「大宮の氷川さん」と呼ばれて親しまれ、何かがあると祈願に行く神社である。初詣には全国から人が集まり、150万人とも称される参拝客でにぎわう。

創建は二千数百年前の孝昭天皇三年と伝わり、日本武尊が東国征伐の祈願をした神社の一つである。神話では出雲系氏族とのつながりも示唆され、延喜式などにも登場する。日本武尊の逸話からか武家からの崇敬も厚く、源氏将軍以下鎌倉武士・足利氏・後北条氏・徳川氏など、関東を地盤にした武家からの保護を受けた。

明治以降も明治天皇行幸を受けるなど皇室との関りが深く、また武蔵一宮という事情から、悲劇の軍艦「武蔵」の艦内神社ははここから分祀されていた。

 

なお武蔵国一宮を主張する神社は複数あり、例えば府中市大國魂神社などもそうだが、一般的には氷川神社が一宮だと見做されているらしい。

参道の長さは約2kmあり、日本一長い参道を主張している。また野球場・サッカー場陸上競技場などが揃う大宮公園は元々神社に附属した森であり、現代でも広い境内(三万坪)がかつてはさらに広かったようだ。

 

・二の鳥居

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二の鳥居。近くにある灯篭(手前のではない)は文化文政時代のもの。

ここでは二の鳥居から紹介する。日本一長い参道と呼ばれるだけあって、一の鳥居から境内までは約2km。直線とはいえ歩いて30分近くかかる。参道に「○○丁」という石があるのは、鳥居からの距離を示すためである。とにかく長い。

参考までに普段は末尾に付する地図をここに付けるが、境内から見ると三の鳥居の下、うっすら緑に伸びていくのが参道である。この縮尺では二の鳥居にすらたどり着けず、神社の森も納まりきっていない。とても広いのだ。

今回の参拝は別の用事も控えていたから、二の鳥居から参拝した。鳥居の前の交通量はそこそこあるし、信号の位置も参道から少しずれているので、交通ルールを守って渡ろう。

 

・三の鳥居

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三の鳥居。手前には勅使を迎える斎館がある。

三の鳥居。ここからいよいよ神社の施設や各種摂末社が見えてくる。よこの案内図は、境内の神札授与所などで貰えるパンフレット(「武蔵一宮 氷川神社略記」)にも載っている。あると何かと便利である。ただし天満神社だけは離れた二の鳥居近くにある、注意。

 

・神楽殿

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楽殿。額は明治百年を記念したもの。

三の鳥居から入って右側にある。今でも時折神事や楽団などの公演が行われる。写っている緑文字の額が作られたのは昭和43(1868)年、明治百年祭のころだとか。

 

・額殿

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額殿。奉納された扁額が並ぶ。

楽殿の奥にある。この日は秩父のワイン業者から奉納された樽が置いてあった。かすれて見えないものもあるが、江戸期以降の額が揃っているようだ。

 

戦艦武蔵の碑

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戦艦武蔵の碑。後ろに見えるのは社務所

先述した通り、氷川神社戦艦武蔵と関りが深い。よって顕彰(と慰霊?)のために、二の鳥居から入って左側に碑がある。境内から奥に入った方には埼玉県護国神社もあるため、興味のある人は一緒に参拝しよう。

 

・手水舎(稲荷神社横)

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稲荷神社横の手水舎。

三の鳥居から少し奥に入った、末社の稲荷神社横に手水舎がある。元々稲荷神社のものだったのだろうか。パンフレットには手水舎とだけ説明がある。

 

・手水舎(楼門前)

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楼門前の手水舎。本来の手水舎はここか?

神池を通り抜けた先にある手水舎。一般的にはここで清めてから参拝する人の方が多いようだ。

 

・楼門

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楼門。拝殿周囲に巡る回廊の正門。

楼門。拝殿に参るには、この門か東門を通らねばならない。よくある形式だが、二階の高楼部分はおそらく飾りなのだろう。初詣に来ると、このあたりから本当の修羅場と化す。

 

・舞殿

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舞殿。時期柄七五三モード。

楼門をくぐってすぐ先にある。神楽殿と同様、ここでも舞などが奉納される。むしろこっちがメインなのだろう。本殿もバックにして撮れるため、写真内でもやっているがよく記念撮影をしている人がいる。

 

・拝殿と本殿

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拝殿および本殿。厳かな雰囲気。

拝殿と本殿。初詣の際には足の踏み場もないほど人手がありにぎわう。関東有数の古社にふさわしい風格を備え、装飾はそこまで派手ではないものの、伝統的な調和のある様は見ごたえがある。

摂社末社は指定有形文化財に指定されている場合があるのに、楼門や拝殿・本殿は選から漏れている。明治以降に修築されたのが要因だろうか?

 

・おわりに

氷川神社は全国有数の大社であり、大宮公園をはじめ周辺施設も充実している。おしゃれなカフェやレストランも多く、カップルが一日を過ごすには最適な場所…と思われるが、実際にはそうではない。私の周りには、大宮公園に長時間居座るとそのカップルは分かれるという伝説があり、何を隠そう私も二回ほどこのジンクス通りに破局を迎えた。デートで行くより一人で行こう。よしんばそういう相手と行くにしても、恋人関係になる前に行こう。

 

参考サイト

・武蔵一宮 氷川神社

musashiichinomiya-hikawa.or.jp

 

神社(?)に行った話…懿徳天皇陵+イトクの森古墳(池田神社)

今回参拝した陵と神社…畝傍山南繊沙渓上陵(懿徳天皇陵)とイトクの森古墳(池田神社)

懿徳天皇について

懿徳天皇は第四代天皇。ここ数回で紹介した安寧天皇開化天皇と同じく欠史八代の一人で、中公文庫『日本書紀』における記述はわずか二頁。安寧天皇の子、孝昭天皇の父とされる。

天皇の事績として伝わっているのは父母の名、都の場所、子の名前程度であり、実在するかは限りなく怪しい。

 

畝傍山南繊沙渓上陵(懿徳天皇陵)について

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懿徳天皇陵。近くには祭祀に使うと思しき宮内庁専用?の駐車場がある。

そんな懿徳天皇の陵とされるのが、畝傍山南方にある古墳だ。前に紹介した安寧天皇陵から徒歩五分の位置にあり、住宅街の中に突然現れる。宮内庁の分類では山形古墳であり、他の天皇陵と同様、古代のヤマト地域で勢力を張った豪族のものだと思われる。

 

・イトクの森古墳(池田神社)

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イトクの森古墳。池田と言う名前はどこから来たのか。未詳。

そんな懿徳天皇陵だが、もう一つ伝承地がある。それがこのイトクの森古墳だ。

この古墳、元は前方後円墳だったらしいが、明治期の開発によって大部分が削り取られ、現在のちょっとした祠形式になってしまった。なぜ池田神社と言うかは未詳、と書いたが、詳しい友人から池田神社は元の畝傍山の鎮守である旨、ご教示頂いた。感謝。

こう言っては何だが明治期の雑な工事でぶち壊されたため、元の古墳の埋葬方式などについては不明。遺物も出ているが当時の発掘方法から見て相当取りこぼしもあったと思われる。

なお、ここと東大谷日女命神社について橿原神宮に聞くと嫌な顔をされるし回答は得られない。注意。

 

・おわりに

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慰霊碑各種。近くからは畝傍山山頂へ進める。

懿徳天皇に関する古墳と神社を概観したが、畝傍山近辺は古墳・神社銀座といった感じのところであり、一気に参拝を勧めることが出来る。近鉄の特急が通じていてアクセスも容易なので、奈良観光ついでに脚を伸ばしてみるのも一興だろう。

なおイトクの森古墳の近くには航空母艦瑞鶴の碑や戦没者を慰霊する殉国の碑がある。

神社(?)に行った話…開化天皇陵

今回詣でた陵…春日率川坂上陵(開化天皇陵)

開化天皇陵について

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春日率川坂上陵。開化天皇陵とされる。

開化天皇は第八代天皇。いわゆる欠史八代の最後で、この天皇に関する『日本書紀』の記述は少ない。手元の中公文庫版では註を含めて二ページしかない。

実在性はきわめて低い。だが非実在を証明するのはもっと難しいので、今後の研究と考古学的発掘に期待といったところだ。父は孝元天皇、子は実在する最古の天皇とも言われる崇神天皇である。

陵に比定されている古墳は100m規模の大規模な前方後円墳で、率川古墳群を構成する一つだ。学術的な名称は念仏寺山古墳。名前の由来は近隣の寺から取ったもので、かつてこの古墳を墓地として利用していたとか。他にも城として使われた古墳や水攻めの堤として使われた古墳もあるので、再利用の目的としては割と穏当な方だろう。

未だに被葬者は不明だが、天皇陵とみるよりは古代の奈良盆地で権力を振るっていた豪族の墓、と見る方が妥当ではあるまいか。

 

・陵の紹介

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拝所。割と交通の便が良いところにある。

特記すべき事項として、この天皇陵は交通の便の良いところにある。JRおよび近鉄奈良駅から徒歩1km、時間にして約15分といった場所だ。幹線道路・名前の由来となった寺・ホテルに囲まれていて、周囲の喧噪とは違った雰囲気である。

なお、墓地になった際、古墳の一部が削られたとか。当然ながらその痕跡を確認することはできない。

 

・おわりに

先述の通りこの古墳が天皇陵かどうかは疑問である。だが、開化天皇とされる実在の某かが葬られていることに変わりはない。奈良観光のついでに(と言っては失礼か)行くには、ちょうど良い神社である。前回紹介した漢國神社の近くでもあるし…

 

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神社に行った話…漢國神社・林神社

今回参拝した神社…漢國神社・林神社

・漢國神社と林神社について

漢國神社は1400年続く古社である。かんごう、と読む。創建は推古天皇元(593)年、同天皇の勅命によると伝わる。かつて社名は春日率川板岡社と号していた。近隣の率川神社との関連が気になるところだが、率川神社には大神神社の遥拝所があるので、その関連か。

その後藤原氏の崇敬も受けたようで、養老元(717)年には藤原不比等によって祭神が合祀されている。なお、平安遷都時には祭神が宮内に勧請されている。

主祭神は大物主命、国津神の中心的存在である。のちに合祀されたのは大己貴命少彦名命。いずれも日本の国を作ったとされる神だ。

 

また林(りん)神社は漢國神社の境内にあり、我が国の菓子作りに貢献した林浄因を祀る。

両社あわせて国土経営・五穀豊穣・家内安全・商売繁盛・諸芸上達…などの神として、信仰をあつめている。

 

・鳥居

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鳥居。左右に石柱があり、それぞれ「県社漢國神社」「饅頭の祖神 林神社」。

鳥居。道路に面している。神社は若干奥に入った路地内にある。前面道路は結構交通量が多いので注意。

 

・外観

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外観。路地の奥である。

外観はちょっとした屋敷・寺と言った感じ。明治以前は何と習合されていたのだろう。

 

・手水舎

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手水舎。左隣にあるほこらが水神社。

手水舎。屋根の下には水漱盥と水神社があり、手を清めた後にお参りも出来る。

 

・神楽殿

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楽殿。屋根には鯱?があった。

楽殿。とても生活感にあふれている。使われずに朽ちていたり、大事にされすぎていてピカピカなものよりも、生活に寄り添う神様といった感じで私は大好き。

 

・漢國神社拝殿

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拝殿。感染症対策もばっちり。

拝殿。桃山時代の建造であり、慶長15(1610)年のもの。本殿といっしょに奈良県の指定有形文化財

 

・漢國神社本殿

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本殿。私は雨を降らす男である。

本殿。こちらも伝統的な様式が見事。雨が止んだ直後だった。雰囲気が非常に良かったものの、撮影には…

 

・林神社

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林神社。

林神社。左右の茶色い物体はおそらく饅頭。関西の菓子製造業者を中心に信仰を集める。

 

・その他末社など

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源九郎稲荷。芝居好きにはたまらない。

源九郎稲荷神社…絶体絶命の義経を、幾度も救った狐を祀る。本社は日本三大稲荷で、大和郡山市にある。

 

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八王子社。一気に八柱を祀る。

八王子神社素戔嗚尊の子八柱を祀る。

 

・葵神社

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葵神社。下記の伝説の信ぴょう性を論じてはならない。

葵神社…祭神は東照大権現、つまり徳川家康大坂の陣で敗れた徳川家康が豊臣方の追撃を受け、何とか逃れた場所がこの神社境内で、それにちなむらしい。

確かに徳川家康奉納と伝わる鎧が伝承されている。現代では奈良国立博物館にあるとか。

 

・おわりに

その他にも謎の末社(調べたが不明)があり、また白雉塚という百済から送られた白い雉を埋めたとされる塚があるらしいが、今回の調査では未発見。

調査不足が否めないので、下調べをしてから再訪したい。駅にも開化天皇陵にも近くおすすめである。

 

参考サイト

・漢國神社ホームページ

kangou-jinja.jp

 

神社に行った話…大阪城豊國神社

今回参拝した神社…大阪豊國神社

・大阪豊國神社について

豊國神社豊臣秀吉を祀る神社で、京都にあるものが有名である。

基本的に読みは「とよくに」神社なのだが、大阪城内にあるこの社は「ほうこく」と読む。他の豊國神社が秀吉だけを祀る場合が多いのに対して、大阪では秀吉・秀長・秀頼という、豊臣家の重鎮三人を祀っている。秀長は秀吉の弟、秀頼は子である。

創建は明治元(1868)年に、初めて大坂へ行幸した明治天皇の命による。実際に出来たのは明治13(1881)年。

明治元年当時はまだ徳川の残党が東国に残っていた時期であり、新政府にしてみれば徳川に滅ぼされた豊臣氏を祀ることでプロパガンダ効果を狙ったものと思われる。

また大阪の礎を築いた秀吉を祀る、という盛り上がりも市民の間にあったと伝わっている。確かに今でも大阪は秀吉推しだ。

昭和36(1961)年までは中之島に鎮座していたが、大阪市役所拡張などのインフラ整備に伴い、替地として秀吉ゆかりの大阪城内に遷座、現在に至る。

太閤記』のイメージから出世開運の神として信仰され、勝負事や結婚式などで良く参拝されているそうである。

 

・一の鳥居

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一の鳥居遠景。あいにくの曇り。


大阪城本丸の堀に背を向けると見える。アスファルトから砂利道に代わるので注意。

 

・手水舎

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手水舎。コロナの為か水は出ていない。

一の鳥居を潜ると手水舎がある。奥に見えるのは末社。献納者の銘板を見るに昭和48(1973)年のものか。

 

・二の鳥居

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二の鳥居と秀吉像。像は2007年の作。

二の鳥居を潜ると拝殿である。鳥居の前に立つ秀吉像は、戦時中に金属供出で持っていかれたものを復元したもの。戦前のものから時代考証を重ねてヴァージョンアップしている。

 

・拝殿

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拝殿。雰囲気は京都の豊國神社に似ている気がする。

拝殿。遷座後に建てられた。随所に太閤桐があしらわれている。

 

・本殿

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本殿。背景から撮る。

本殿。拝殿同様、桐紋をモチーフにしている。

 

・その他末社など

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白玉神社・七夕神社・玉春神社・玉繫神社

白玉神社…中之島の某藩蔵屋敷(神社による説明)にあったが、維新後旧藩士が私邸に祀る。だが豊國神社創建にともない、中之島に戻すべく豊國神社遷座された。祭神は宇迦之御霊神。いわゆるお稲荷さんである。

七夕神社…明治の合祀政策で天満あたりからここに入った。祭神は宇迦之御霊神と稚日女尊

玉春神社・玉繁神社…神社でもすでに詳細不明だが、七夕神社と同様に合祀。祭神は宇迦之御霊神。

 

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若永神社。末社の中でここだけ若干扱いが良い。

若永神社…秀吉の御用商人が祀っていた稲荷神社が起源。ここの祭神も宇迦之御魂神。表記は異なるが、上述の四社と祭神は同じである。

 

・おわりに

この神社はまさに大阪城公園の中心にあり、交通の便も非常に良い。

大阪城天守閣の見物やコンサートの際に、一緒に参拝しても良いかもしれない。

なかなかお守りなども面白そうだ。筆者はスタンダードなものを買ったが、再訪したときには攻めてみるつもりである。

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神社に行った話…畝火山口神社

今回参拝した神社…畝火山口神社(おむねやまじんじゃ)

・畝火山口神社について

畝火山口神社は大和三山の一つ畝傍山に位置する神社である。名前に「火」が入るのは、古代から畝傍山が火山であると信じられていたかららしい。

歴史は古く正確な創建年代は不明だが、少なくとも大同年間(9世紀初頭)とみられ、『日本三代実録』『延喜式』などの文書には既に名前が出ている。主祭神神功皇后・豊受比売命・表筒男命神功皇后(気長足姫命)と筒男命の二柱の関連で住吉大社との関連が深く、大社で使う土器の原料たる土を畝傍山で採取する儀式が行われる。

元々は現在地に近い畝傍山の西側にあったようだが、戦国時代には山頂に遷座し、昭和になってからまた山麓へ、という移動を繰り返している。昭和の移動は所謂国家神道軍国主義が手をつないだ結果らしいが…橿原神宮神武天皇陵の整備にあたっては、この種の黒い話が付きまとっている。

社格は県社。昭和の遷座が行われたとき、代償として郷社から昇格したという。

では神社について見ていこう。

 

・鳥居

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鳥居。山中なので坂を登ったところにある。

左右に神社の案内版がある。右側のものは写っていないが、神社の正しい読み(おむねやま)や祭神、ご利益についての説明書きがされている。神功皇后主祭神なので、子宝・安産の利益があるとか。

 

・手水舎

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手水舎。コロナ流行のため使用停止中?

手水舎には神紋が付いている。近くに公衆トイレがあるのだが、ここの手水で手を洗わないよう注意書きがある。そのトイレに水の出る蛇口はなかった。

 

祓戸大神

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祓戸大神。奈良では関東よりも見る機会が多かったような…

穢れを祓ってくれる神様。鳥居をくぐった後、しばらく進んでから右側にある。いろいろな祀り方があるものの、こちらでは神木として祀っているらしい。

 

・その他摂末社

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摂末社。画像の順に並んでいる。


こちらは祓戸大神の反対側にある。一番左のほこらは何が祀られているか未詳。訊ねようと思ったら、朝のお勤めの最中で訊けなかった。

その他六柱については木札で名前が分かった。左から順に、高良神社・八幡神社厳島神社春日神社・埴安彦命神社・大山祇命神社。Wikipediaなどでは本来の主祭神大山祇命だとされるが、本当だろうか。

 

・拝殿

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拝殿。いい感じの写真がこれしかなかった。

拝殿はよくある(?)神楽殿等と兼ねたタイプか。神社建築に詳しくないので詳細は未詳だが、中には奉納された扁額や絵馬が飾ってあった。一見の限りでは主祭神神功皇后武内宿禰関連のものがいくつかあった。かすれているものも多いが…

 

・本殿

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本殿。儀式の最中だった。

拝殿の後ろが本殿である。なかなかバランスの良いと感じる大きさだった。中を覗いて見ようとも思ったが、不敬だし儀式の最中だしで思いとどまる。

 

・子授石

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子授石?名称は未詳。

神功皇后にはのちの応神天皇を身ごもったまま朝鮮半島に遠征し、帰還した後でお産をしたという伝説がある。ゆえに上述の通り子宝の神として信仰されているケースが多い。ここも例外ではなく、触ると子供を授かるという石が置かれている。

 

遷宮五十年記念の馬

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馬の像。力強くて一瞬で好きになった。

これは遷宮五十年記念に、奉賛会が奉納した馬である。ちょうど子授けの石と対になるようなところにある。出来はかなりよい。

 

・おわりに

畝傍山近辺は飛鳥地域にあたり、山周辺だけでもたくさんの神社がある。一日で飛鳥を制覇するのは難しいが、畝傍山だけに絞れば半日で何とかなるので、ぜひチャレンジして欲しい。前に書いた安寧天皇陵と神社からも近いぞ。

 

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