気のゆくまま筆のゆくまま

日々感じたことを書きます。

神社(?)に行った話…懿徳天皇陵+イトクの森古墳(池田神社)

今回参拝した陵と神社…畝傍山南繊沙渓上陵(懿徳天皇陵)とイトクの森古墳(池田神社)

懿徳天皇について

懿徳天皇は第四代天皇。ここ数回で紹介した安寧天皇開化天皇と同じく欠史八代の一人で、中公文庫『日本書紀』における記述はわずか二頁。安寧天皇の子、孝昭天皇の父とされる。

天皇の事績として伝わっているのは父母の名、都の場所、子の名前程度であり、実在するかは限りなく怪しい。

 

畝傍山南繊沙渓上陵(懿徳天皇陵)について

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懿徳天皇陵。近くには祭祀に使うと思しき宮内庁専用?の駐車場がある。

そんな懿徳天皇の陵とされるのが、畝傍山南方にある古墳だ。前に紹介した安寧天皇陵から徒歩五分の位置にあり、住宅街の中に突然現れる。宮内庁の分類では山形古墳であり、他の天皇陵と同様、古代のヤマト地域で勢力を張った豪族のものだと思われる。

 

・イトクの森古墳(池田神社)

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イトクの森古墳。池田と言う名前はどこから来たのか。未詳。

そんな懿徳天皇陵だが、もう一つ伝承地がある。それがこのイトクの森古墳だ。

この古墳、元は前方後円墳だったらしいが、明治期の開発によって大部分が削り取られ、現在のちょっとした祠形式になってしまった。なぜ池田神社と言うかは未詳、と書いたが、詳しい友人から池田神社は元の畝傍山の鎮守である旨、ご教示頂いた。感謝。

こう言っては何だが明治期の雑な工事でぶち壊されたため、元の古墳の埋葬方式などについては不明。遺物も出ているが当時の発掘方法から見て相当取りこぼしもあったと思われる。

なお、ここと東大谷日女命神社について橿原神宮に聞くと嫌な顔をされるし回答は得られない。注意。

 

・おわりに

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慰霊碑各種。近くからは畝傍山山頂へ進める。

懿徳天皇に関する古墳と神社を概観したが、畝傍山近辺は古墳・神社銀座といった感じのところであり、一気に参拝を勧めることが出来る。近鉄の特急が通じていてアクセスも容易なので、奈良観光ついでに脚を伸ばしてみるのも一興だろう。

なおイトクの森古墳の近くには航空母艦瑞鶴の碑や戦没者を慰霊する殉国の碑がある。