今回参拝した神社…越谷久伊豆神社
・友人に憧れている話。
割と趣味のあう友達(と私が思っているひと)のやっているブログが、結構他人に見られているらしい。
そのブログはこちら。
彼は大学の同期で、哲学科の出身なのだが何故か有職故実やら諸家の系譜に詳しく、神社めぐりが趣味と言う「お前日本古代史専攻だろ?」といったような人物だ。
彼のブログではアニメ・ゲームの聖地や寺社を巡礼する記事が人気で、結構なアクセス数を博しているらしい。確かに記事は面白く、こういうものが書きたいな、という憧憬を抱くこともある。
そこでと言ってはなんだが、カメラを買ったこともあるし、私も少し書いてみることにした。彼ほどの記事は書けないだろう。しかしそれでも書いてみたい、という衝動はあるので、そのまま書き進めてみる。
- 今回参拝した神社…越谷久伊豆神社
- ・友人に憧れている話。
- ・今回参拝した神社―越谷久伊豆神社について
- ・一の鳥居
- ・二の鳥居
- ・三の鳥居
- ・手水舎
- ・神楽殿
- ・拝殿
- ・その他、主な末社など。
- ・おわりに
・今回参拝した神社―越谷久伊豆神社について
さて、今回参拝したのは私の地元、越谷市の鎮守たる久伊豆神社である。祭神は大国主命・事代主命で、配祀は高照姫命・溝咋姫命・雨穂日命。見事なまでに国津神だ。神紋は立葵で、これは徳川家の崇敬の念を表すもの、という伝承がある。
創建は平安末期とされる。当時の越ヶ谷郷周辺は鎌倉武士の巣窟で、また荒川利根川水系の川が集まり複数の街道が通るなど交通の要衝でもあった。
そのため久伊豆神社も郷の鎮守として代々の領主・町民により手厚く保護された。その中には徳川将軍家も含まれており、近くに将軍家の御殿跡もある。中途半端な田舎で鷹狩りに良かったとか。
江戸期の越ヶ谷は日光街道の宿駅となり、元々の交通の便もあって(田舎にしては)繁華な宿場町として栄えた。江戸四宿・岡場所であぶれた男や遊女が集まる旅籠が立ち並び、日光東照宮建立後失業した職人も集まっていたらしい。
先述の通りそこそこ栄え、そこそこな田舎だったため居心地は良かったようで、大国学者の平田篤胤が境内に仮寓し神社に大絵馬を奉納したりしている。
維新後は郷社となり、また近年では久伊豆を「くいず」と呼んで「クイズ神社」としてクイズ番組出場者からも崇敬を集めるようになっている。また、南洋神社(詳細後述)の遥拝殿があることでも知られる。
以下、参道から拝殿までを見てみよう。
・一の鳥居
前置きが長くなった。ここからは実際の神社の紹介。一の鳥居は元荒川に向かっている。この川は、古代には武蔵国と下総国の境であり、境界と言う特殊性から建立地として選ばれたものとも考えられる。こちらは石造。
・二の鳥居
こちらも石造。寛政・文政あたりに大改修されたとき、一の鳥居と一緒に作ったものと思われる。こちらも石造。
・三の鳥居
伊勢神宮は皇大神宮の式年遷宮時、撤下された門の古材を利用して平成7(1995)年に建立された。ここからいよいよ境内である。
・手水舎
登竜門の彫刻が随所に施されている。HPを見ると延宝三年(1675)年とあるから、元禄時代前夜のものだ。なお、手水を使う水盤は嘉永年間のもの。
・神楽殿
神楽や能をやるところ。造立年代未詳。
・拝殿
昭和39(1964)年建造。神輿を出すときに毎回雨にたたられたことから作られたとか。少年野球の必勝祈願や自動車のお祓い、七五三のときはこの中で祈祷をしてもらう。手前の狛犬(先頭の画像に少し映っている)は文政年間のもの。
・本殿
寛政元(1789)年建立。大国主命以下の祭神五柱を祀る。三間社流造りとのことで、日光東照宮の改修などにも従事した職人の手によると聞いたことがある。
・その他、主な末社など。
埼玉稲荷神社…三の鳥居前にある。埼玉と名が付くのは、当地の郡名(埼玉郡)によるものか。造立年未詳。
南洋神社遥拝殿…平成16(2004)年建立。戦前期、日本が委任統治していた南洋地域に対する統治政策上作った南洋神社(パラオにあった)を遥拝する。南洋開拓・アジア開放を願った人々の祈りと誓いを顕彰するものだとか。背景となった思想は兎も角、こういうものがあっても良いだろう。
・おわりに
ここまで長々と紹介してきたが、割と大きな神社なのでこの他にも末社や祖霊社がいくつかあり、文化文政時代以降、多くの人がささげた石碑など見どころはまだ満載である。
少し行ったところには「月姫」(正確には「花月十夜」か)の聖地もあるので、南関東に在住の方はちょっとしたお出かけついでに尋ねてみても面白いかもしれない。レイクタウンもあるよ。
・参考サイト